Pages - Menu

2019年4月22日月曜日

今の選択、未来、YESの選択







今 を見つめて 


今この瞬間に


もっとも集中して生きる(選択)することの 


たいせつさについて。 






幼い頃から

未来のことを 頭で考えすぎて 

動けなくなったり

今の選択が左右されたり

未来の自由が拘束されたり

あるいは不安を抱いたりしがちで




でもこれからは 今に集中しなければ

いまを感じなければ


とつよく思うようになった





目の前のことを 最大限に 全身全霊を込めて考えて

最善の選択をすることができるのなら



それを積み重ねた未来は

自分自身で 信頼できないはずないだろうと


感じた






もちろん

思いやりの心
その言動が及ぼすエネルギーや影響のことは
忘れてはいけなくて

思いやり、影響、調和的で 良心に従っていて
愛を自分の中でたくさん込めた 選択であることを

前提にして


今必要なこと 今感じるべきこと

今考えるべきことに集中して最善を 選ぶようにしたら




きっと 自分で信じられる未来になる と思う



そうして、

そうしよう、


と思った 






「こうなりたくない」

「絶対にこれだけは嫌」





と“未来のNO”から選ぶ選択ではなくて


YES から選択しなくては。





YES に基づいていなければ

自分が信用できる未来をつくることは


いつまで経っても


できないのだと 思った




























2019年4月20日土曜日

食事療法中のヴィーガンスープ



アーユルヴェーダの食事療法プログラム擬似パンチャカルマをやっています 。





基本的にすべての油と、小麦、動物性、乳製品、根菜、お芋類、ねぎ類、などなどをぬいています。




かなり厳しい食材リストがあり

お醤油やお味噌もほんの少ししかだめなので



昆布だしと岩塩のみの味付けです。



でも すごく美味しくかんじる。


からだがものすごく 静かで 


五感が精妙になっていく感じがわかる。


様々なことに研ぎ澄まされていくこの時間が好き。


パンチャカルマに入るたびに思う。




五感が精妙になると
あらゆることへの感度や感じ方も こまかく豊かになってゆく。




自分の感情も 自分以外の存在の感情も
世の中に流れているものも
ものに宿るいろんな 質も..





たくさんのさまざまなもののなかに
光のような存在を みつけられるようになる





みつけよう、という気持ちに 自然になっている
不思議なこと




言われたわけじゃなく
気づいたらそうなっている患者さんたちを
たくさんみてきた




だから アーユルヴェーダがすきだし


すべて自然に、理にかなっているその考え方がすき。





そのアーユルヴェーダの魅力を
すこしずつ紹介していければいいなと思っています。






そんな薄味で サットヴァと言われる「純粋性」のある食事とは
こんなものをプログラム中はたべています*


カリフラワーとレタスのスープ





固形がダメな(下剤療法から数日の)時期は
ビーツのポタージュなど・・*




「できたて」であることがとても大事

オージャスと言われる免疫物質がとても増えるから。



何度目かの食事療法は、少し自由度が出てきて
いろいろ工夫をできる心の余裕と楽しさが・・・*


プログラム中でもゆたかに食べられる工夫をできるようになって行きたい*


蓮村先生のアーユルヴェーダ医院が閉院してしまったいま、
パンチャカルマはインドかスリランカにいかないと受けられない。


忙しい日本だからこそ、「未然に不調を調整する」という考え方と
調整方法がもっと広まればいいなと思っています。










2019年4月17日水曜日

アーユルヴェーダの食事療法に








体力がもどってきたので、
アーユルヴェーダの食事療法の浄化プログラムに入りました。

その直前に食べたPathのダッチパンケーキが美味しすぎて忘れられない><

終わったら食べに行きますです。


4/26まではスープやお粥やお蕎麦の生活をして、とてもおなかをすかせています🐷・・・ 


すべての油と、小麦、動物性、乳製品、根菜、お芋類、ねぎ類、などなどをぬいています


ここ34日は固形物を断つ日なのでとっていません


4/20からゆっくり立ち上げ。


3週間弱かかるプログラムだけれど終わった後はほんとにピカピカ
軽くて爽快で、頭もとても回るようになる。



辛いけど終わったあとのからだの心地よさと
ほんとうにからだが欲するものが分かるようになる、
ゆえに悪いものをとりたくなる頻度が減ってゆくサイクルもうまれる*
からだは乱れると悪いものをほしくなってしまうもの。
それを欲しく無くしていく、という柔らかいやりかたがアーユルヴェーダの好きなところです。



そして、このプログラムはなぜか終わったあとに
転機も起こりやすく、より自分らしく変わっていけるようになります*
アーユルヴェーダが、自然法則に基づいている医学なので



自分も"自然"にもどっていく。



いちばん自然なままの心地よい、そして川が上から下へ流れてゆくような


良い状態でナチュラルにすすむ自分になれる。



そして、からだや頭が重たいといろいろフィルタがかかったり感じられることも分かりづらくなるので、
定期的にやりたくなるのです。


好転反応の頭痛やだるさや、
これまでの疲れもでてきますが、ここで一旦リセットです*
半年は体質が改善し続けると言われるパンチャカルマをセルフなので、浣腸のみなしでやってみています。



いろいろなことが維新している春、

からだから。
心から。
生まれ変わりたい。


すっきり浄化を目指してがんばります・・*




2019年4月7日日曜日

集合意識をひろう

きょうは新宿のISETANに用事があり
でかけたら

新宿で“もらって”しまったかんじがありました

さいきん、何かしらもらうとからだではっきりわかる



きょうは本当に突然とてもいらいらして


我慢できなくなりそうで
原因は何もないのに怒り出してしまいそうな
どうしたんだろう と


めったに いらつかない方だとおもってたけれど
この自分らしくない 抑えきれないような

激しさに 不思議だと思いつつ 家に帰った



きっと 集合意識をもらったみたい


でした。


集合意識。

きっと皆が 抑えきれない怒りを感じていることや
あるいは犯罪が起こったりするその我慢のできない感覚や感情、
わからないけれど


多くの人が今こういう感覚を持っているか、
この感覚を感じている人たちのエネルギーが入ってきたのかなと
思った



というのは
そのあと夕方の瞑想のなかで

何かにとてもとても静かに激しく怒っている この世界のいびつさや
戦争(とか だったとおもう)や 失われてる何かバランスについての 原因を
ものすごく真剣に 熱気をおびて 誠実に

話しあっていた 声やイメージを知らない間にみていた。

うんうん、とわたしも同感して そのイメージを感じて胸が熱くなっていた

そうして 
ああ やっぱりさっきのは

その感情を起こすものについての話し合いのような感覚で


世の中に充満してしまっている怒りの集合意識を

受け取ったんだった、と確信したのでした




でも 重要なその議題になっていた原因のぶぶんが

途中 超越がふかくなってしまって 
その場面が遠くなってしまい
目醒めた時に全然わからなくなっていたのでした・・


瞑想ちゅうははっきり
同意して聞いていて なるほど、わたしもそうおもっている、と強くかんじていたのに

その感覚 捕まえられなかった 


目醒めながら しばらく一生懸命おもいだしたけど
全然わからなくなってしまった >< 逃してしまったでした 

しばらくしたら
また ふっと思い出したり 見えてきそうかな。

とても大事なことな 気がする。




さいきんは

人ごみに出ると 自分が受け取るなにかがあるようで
念やその場所に持ち込まれた記憶みたいなものもあるし

いろいろなものがあるけれど

あ、もらった、っていう感覚がすこしずつ 鮮明になってきていると
感じています

まえは毎日 人ごみを通っていたから気づかなかったのかな





今朝は
米粉パンとヴィーガンハムでピザトーストにしました*


明日からは擬似パンチャカルマ。(アーユルヴェーダの浄化プログラム)
小麦も油も動物性のあらゆるもの、米粉パンですらぜーーんぶ抜きで
精進料理のような完全ヴィーガンかつ食材制限に入ります。


すっきり心身の浄化でリセットしようと思っています



2019年4月4日木曜日

”構造”をみつめる



あたらしくて 苦くて たくさんのことを
みつめる春  です。



たくさんのことが 震えて 
たくさんのことを決意した この春は 一生おぼえているべき春。




"ほんとうに見つめなければいけないこと"

を見失わないこと


なにかが 心を 激しく揺らすような

受け止め難い出来事がおこったとき

なにを 見つめるべきだろうか?






この春をむかえるまでに

とても 苦労した





本当に見つめるべきところは


たとえるなら 
木の枝葉の枯れた場所や 折れた枝なのではなく



枝葉にあらわれたその「根っこにある歪み」「たわみ」
が全てをつくりだしているのではないか ということ


受け止めがたき 心揺さぶる出来事が起きたとき
それを表層の出来事なのではなく構造的に考える必要性を感じて


表層のことだけでは 説明のつかないエネルギーが
作用していると 感じざるおえなかった



もちろん表面的にあらわれている事象を
見つめて向き合うことは別軸で大事なこととして
当たり前の大前提にあって

どれだけ それに良心に従って正しく向き合うかも



大切なことなのだとも 思っている


それでも自分という存在を含んだ出来事について
「構造的に」理解するという視点を持つことが
ほんとうの意味の
正義や調和なのだと思うし


人間が本来持っている 力なのだとも 思った



枝葉の不調は根っこの「たわみ」から
生まれているかもしれない


それはもう忘れてしまった過去の時代のいつの日にか
手放してしまった、諦めてしまった「何か」 があって

それがつくられた、もしかするともう自分も意識していないほど昔の傷や
トラウマだったりするのかもしれないけれど


その傷のような何かをかくまうために建てられた家というものに基づいた現実は

その傷を守るべきもので建てられた家であり 

傷あってこそ存在する虚像の自分自身であって

それが

「受け止めがたいこと」や不協和音的出来事の根っこの 
そもそもの原理なのではないかと思い至った



本質的な歪みの上につくられたものに 

不具合が起きないわけはなく

その不具合直したり 癒したりと向き合っても

一時的な応急処置にしか過ぎなくて

本当はそのパンドラの箱の中の傷を癒さないことには
認識しないことには

虚像の自分を立て続けてしまうし ストレスフルになるし

枝葉の不調や不協和音を招き続けてしまうことに きっとなる 





ほんとうに理解したいものを理解する時には
痛みが伴うのだと 思った

いちばん見たくない自分の未熟な部分と向き合わなければ
出来事と本質的に向き合ったことにはならなくて

きっとこの先も
自分という枠を出たものすべてについて きっとなにも理解できない


何かの 誰かのせいにして 終わる


でも100%何かの 誰かのせいなんて ありえないのだと思う。

人間はぜったいに 響き合って 生きている。


なにかがあったとき
なにが「直接的な」原因でそうなったかという 、
水面で弾けた泡ぶくという表面の出来事だけなのではなく 


泡が泡として生まれたその瞬間からを
見つめないことには

なににおいても 本質的な理解をできないのだと 思う。


自分という存在や置かれている場所を

泡の生まれた場所から その自分を俯瞰する視点がなければ

なにかを
ほんとうに理解したり 愛したり できないのだと 思う。


生きているすべてのもののエネルギーは
見えないところで
絶対に 響きあって すべての結果が在るのだろうということ。


受けとっているものが たとえ受け止めづらいことであっても

それは 自分の過去の内面作用が作った泡ぶくなのだと 思う。


今の自分になにかを知らせるために 返ってきている。と。おもうのです。

だからわたしは わたしの「たわみ」を感じることをしていたいと思う


わたしは その自分の泡ぶくを
泡ぶくを生んだその瞬間の自分の「たわみ」を
見つめることを 怠りたくない と思う


それでなきゃ 自分の未来をつくっていけないのだと
思った


「たわみ」は弓矢の原理と同じで
たわみを重ねるほど
その力は強くなり 放たれた時には
ものすごく強くて ものすごい破壊力を持つものになってしまうのだと
思う

だから
「たわみ」を振り返ることで
「たわみ」が生まれたその瞬間に気づけるようになるのだと思う

それをできるようにならなければ
未来はいつまでも 同じことが繰り返されてしまうのが
ごく自然だと 思うから



だから

何年も前からの自分の 欠落を

思い返す



むかし傷つけた人へ向けた 自分の泡ぶくのエネルギー全てに
共通するものや 質を考えている


痛みは もたらされるべくしてもたらされた、何年もかけて
これはきっとわたしだけではない 構造的に

それをみつめることが 大事な時期なのだとからだが感じている



みつめて 今は 刻んでいる 時間