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2019年8月15日木曜日

いのちは水滴のよう、






台風

雨にうたれて 

すこしまえに感じていたことを 思いだして*



まいにちは 
いろいろなことが それぞれの場所で行われて


毎瞬いろいろなことが起こっては消え
起こっては消え


いろんな場所でいろんな人の物語や瞬間が
この世界には
めいいっぱいに満ちるように
たわわに あつめられている


蜘蛛の巣に抱きとめられている水滴をみて 
世界とおなじつくり と かんじた



一滴ずつ 毎瞬失われるとき


揺れて光を映したり 世界を映したり
音なく静かに失われたり
あわさってひとつになったり 
はじけたり


水のように この世界のいのちや瞬間も
こうして
同じように 揺れたりして
どこかに還っていってるのだとおもった

そうして
巡る

水と同じように
いのちも瞬間もまぜまぜになって
溶け合って

そうして
またちがう それぞれのかたちになって
巡る


わたしは
全てがひとつだった時の記憶がある

と気づいたことがありました

記憶というより感覚の記憶



学生時代
どうしても拭えない孤独感のようなものを
もっていた時期があって

それは人同士が
何をしても分かり合えないような
体という壁に絶対的に途方もなく隔てられているような

その隔たりが人と人の間にある重みや
苦しさに悩んでいた時期があった


こころの正体や
からだの正体や
その関係性の答えを知りたくて
その感覚が何から起こっているのか知りたくて
答えを探すように
哲学や文学や芸術書を読みあさっていた時期があり


その答えはその何年もあと
ほんとうに近年になって、感覚的にわかった

その孤独感のわけは、隔てらているような苦しさのわけは

“本当はひとつだったことを
感覚的にこころとからだが覚えているからだ”
と気づいたからでした

本当はみんなまぜまぜで
自分という領域すら 水の中ではわからないくらい
ひとつだった 
という感覚の記憶


だからこそ
隔てられていることによって
いがみ合ったり 100%分かりあうことができないことや
どんなに触れあったとしても絶対的に隔てられている、という
なんとも言えない感覚が生まれてしまったのは

本当はわかりあってたはずなのに・・?
という混乱にも似たようなものだったようにも
思う


今では
べつべつに存在することこそが
成長や彩りをもたらすとても大切な貴重な輪郭であること

毎瞬を感じ
毎瞬をぬぎ 成長していく
ためのからだとこころの存在
体験をつくる大切な場所なのだと
いまは全てを大切におもえる


当時は長いこと
その感覚に悩まされていたけれど
そういうことだったのかと やっと答えに出会えて

なおさら いまはこの個人個人の
こころとからだの輪郭をとても愛おしく感じる

そしてどの輪郭とも丁寧に向き合いたいと
思っている 


こころにも
たくさんのひだと輪郭があるし
からだにも
その人だけの特徴や体質があり

この答えに出会うまでに長い間かかったのは
この感覚とリアルに出会って
そうして一人一人とじっくり向き合い大切にするために
必要だったからだと 感じる


そして
アーユルヴェーダを学んで知ったことは
体質を紐解けば
その人がほんとうにやりたいことや心に浮かぶ願いは
体質と確実に結びついているということです

そのこころとからだで生まれたのは
それをやるために最も適した心身環境を選んでいるということ

心や意思が先か
からだや体質が先かという神秘なニワトリタマゴ問題も
感じるけれど
確実に結びついていることがわかっています


心身環境や自身の傾向を知ることで
自分の体質にあった、自分が一番やりがいを感じることのできる活動や
動き方がわかるということなのです


だからこそ
この世界では、まぜまぜではないことが素晴らしくて
個別のいのちがもっている全ての輪郭に意味と役割があり 
愛おしく 大切なものなのだと日々感じるばかりです


その体質・傾向からその人にしかできない、
生きがいを感じられる活動や役割が何であるか、どのようにすると
よりひろがりをもつのか、を
紐解いてゆくメニューで
色々な方の想い、体質に出会わせてもらうことで

ほんとうに 誰のものでも それが尊く感じられ、

一滴の水のような 人間であることの、人間でしかできない
その一瞬ともおもえる いのちの時間や存在と
丁寧に向き合っていたいと
思います  *


いのちは水滴のよう、

自然の中に 
大きなものも小さなものも知性として同じ構造をして
潜んでいる..*



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