ZEN






きのう禅の本を読んでみて


とっても考えさせられた


今まで触れたことがなかった世界だったけれど

京都へ先月11日滞在する中で


妙心寺の方と仲良くさせていただいたこと、

神聖なものが当たり前に身近に存在する土地で
それがからだに馴染んでいるお友達が何人もできたことで


とても自然に 心が向かった *





禅の公案(課題)には答えが用意されていない


答えが用意されていないということに

心が ポカン となってしまった


いかに自分が普段 受け身な考え方をしているかを
気付かされた


公案のこたえはじぶんで導くもので 
道徳的であったり倫理的であるかが正しいわけではない


むしろ道徳的にこうだから私はこうします、という回答は
むしろ意味を持たない・・世界


あなたの答え あなたの考え あなたの導いたもの

ということが
とても大切だということ。


私たちは日々きっと
どうある姿が正しいのか

自分の心を導いてくれる
影響力のあるものとの出会いを感じながら
生きていることの方が

きっと多くて

とても難しい究極のような問いに対して、
答えは自分で考えなさい。本当の答えはない、

という方法に
ほとんど触れてこなかったんだ、と思ってしまった

自分で考えなさい、
と言われて育つけれど、本当に自分で考えた答えであることは
実は少なかったんだと思った

模範や教え込まれたこと、人として、という観点が考慮されて
導かれたもので
本当に自分自身やそれを選択することがどういうことになるのかを
まっさらなところから考え導き出されたものではないことが
ほとんどだったのでは、と振り返ってしまった


ふだん自分の意思が働いてるとおもっていたものも

思ってる以上に“受け身に”選択して
生きていることに気付かされた



受け身な選択、


運命や目の前のことを自分の意思で選んでいるようで

もしかしたら
これまで培ってきた、あるいは味わってきたものの中で形成された、
「きっとこうあるべき」に従った選択なのかもしれない


ということに 気づいた、ということです。


こうするのが、社会的なルールだから。
だけではない

社会的なルールとは別に
自分が考えたプロセスや思いを巡らせた範囲や
それで自分で一番納得できる解答を導いたということが重要なのだということに



使っていなかった頭の部分が
熱くなった感じがした *




そして一つ
私は「自分の良心に背かないこと」は
自分の中で能動的に決めている意識だなあ

という発見もあった



例えば何かを求められていても
自分の良心がそれに向かわないのなら、選ぶべきじゃないと
思っているです。


そこに心がこもっていなければ
心からの行動や選択でないのであれば
それは真実ではないのだから。

一見 優しさや気遣いや思いやりに見えることだっとしても
本質的な”響き”は変わってしまうとおもうのです。








ほんとに知らない世界

でも もっと知ってみたい




むつかしくて答えがでなかったのに


なんとなく きょうは 答えの輪郭が 見えてきていたりする  *

それが公案の持つ意味なんだろうな






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